藤沢秀行-モニュメント

藤沢秀行

 名誉棋聖「藤沢秀行」「狭苦しい墓には入らない。美しい周防灘の海から世界へ旅立ちたい」秀行の遺志により、2009年10月13日、山口県周南市大津島沖で散骨が行われました。

 

藤沢秀行

 周南市大津島は 徳山港の沖合10kmに浮かぶ、約6×1 kmの南北に細長い島で、徳山港の天然の防波堤をなしており、瀬戸内海国立公園の西端に位置する。

 徳山港に面する東側は、穏やかな海岸で人家も多い。周防灘に面する西側は、荒波を受けて殆どが断崖絶壁である。

 モニュメントが立つ辺りはくびれていて両側の海を見ることが出来るが、昔は海であり、大津島と馬島は別の島であった。

 人口は、かつては2700を数えたが、減少の一途を辿り、今は400ほどである。

 大津島及び隣接する黒髪島は、花崗岩の産地であり、大津島には江戸初期大阪城の石垣に98個用いられた10数トンの角石が一部残っている。また黒髪島の石は国会議事堂に用いられたことで有名である。

 戦時中、大津島には「回天」の基地があり、発射訓練基地が今もモニュメントの目前の海上にある。整備工場もあって、回天はここの港で潜水艦に搭載されて南の海へ出撃して行った。

 近くにその記念館があり、往時を偲んで訪れる人々は多い。

交通のご案内

徳山駅新幹線口~大津島巡航事務所270m

(巡航船事務所で切符をお買い求め下さい)

徳山港~馬島港1日9往復

●フェリー 44分

●客船「鼓海Ⅱ」18分or 34分(経路による)

馬島港~モニュメント180m

※秀行記念碑のスタンプは馬島港待合室においてあります。

<お問い合わせ>

大津島巡航((株))事務所

TEL:O834-21-7749

藤沢秀行名誉棋聖

モニュメント「磊磊・海への旅立ち」

磊磊 らいらい

志を遮るものなし

思いのままに大きく生きる

山口県周南市大津島

藤沢秀行

モニュメントの由来

 2009年10月13日、囲碁の巨星・藤沢秀行名誉棋聖の散骨が行われました。海への散骨は秀行先生の遺志によるもので、「墓のような狭いところには入りたくない、海流に乗って七つの海を旅したい」というのがその理由でした。

 その場所は、モニュメントの向こうの海、左手の岬と沖に浮かぶ島の間のあたりです。その先は豊後水道で、戦艦大和の最期の出撃と同じルートを辿って、先生も太平洋へ旅立たれたものと思われます。

 この感動的な出来事を後世に伝えるために、形あるものを遺しておきたいという思いから、このモニュメントは作られました。20名を超える有志からなる発起入会が、多くの人々から募金を戴き、2010年10月に完成しました。

 モニュメントは彫刻と書のコラボレートによる、芸術性の高い作品です。書を抱く二つのアークは波を表し、波に抱かれて海を旅行くというイメージです。

 彫刻は黒髪島や大津島の御影石を用い、長年大津島にアトリエを構えて海をテーマに石の彫刻を制作してきた、新制作協会会員・中島幹夫氏の作です。

 刻まれた「磊磊」は、書家としても高名な秀行先生の書で、心が大きく小事にこだわらないさま、という意味で「らいらい」と読みます。

 もう一面に刻まれた詩文は、日本の代表的な書家・柳田泰山氏の書による、秀行先生の詩「旅人」です。囲碁に対する高い志とともに、海への憧憬が心を打ちます。

どんなに長い時が過ぎても、あの海の輝きはここにある

我等の心に

そして我等がいなくなっても、志はここに生きる

 この海を臨む彼等、若き旅人の胸に

※このモニュメントは、将来の維持管理のためもあって、市営大津島公園の公園施設として周南市に寄贈されます。

名誉棋聖 藤沢秀行(1925-2009)

 戦後を代表する囲碁棋士の一人。人柄そのままの豪放磊落な棋風で、「異常感覚」とも「華麗」とも呼ばれた。初代名人位などタイトルにまつわるエピソードも多い。

 昭和52年、読売新聞が創設した棋聖戦で、第1期から6連覇を成し遂げる。51歳から56歳のことであり、アルコールの禁断症状に苦しみながらの戦いであったという。

 棋聖の座を譲り渡した直後に胃癌が発見され、胃の殆どを滴出する手術を受けた。その後もリンパ癌・前立腺癌と続き、病と苦闘しながら対局するという歳月であった。

 そんな中で66、67歳と王座を連覇し、これはタイトル獲得の史上最高齢記録である。一方では後進の育成に力を注ぎ、秀行先生を師と仰ぐ棋士は、現在の年令で2Q歳代から70歳代にわたって枚挙に暇がない。また、中国・韓国の今日の隆盛の礎を築いた棋士たちの多くも、秀行先生の薫陶を受けた。

 書道においても、銀座松坂屋などで度々個展を開くなど、その豪放な作品は高い評価を受けている。「磊磊」は厳島神社の千畳閣に掲げられていることでも有名である。

 盤外では(酒、ギャンブル、借金、女性関係と、「最後の無頼派」ともいうべき純粋なるがゆえの破天荒な生き方は、本やテレビでよく知られ、多くの人々を魅了した。

 病床にあっても、碁と書に対する強烈な情熱は、最期まで衰えることはなかった。

彫刻家 中島幹夫

新制作協会会員。

1959年東京芸術大学彫刻科卒。

62年新制作展初出品、新作家賞受賞。64年も同賞を受け、68年新制作協会会員に推挙される。

 30数年にわたって、東京芸大や千葉大などで講師を勤め、後進の指導に当たる。

 数多くの石の大型モニュメントを自らの手で制作し、肉体労働者だと笑う。一方では硝子の彫刻の先駆者でもあり、ランドスケープデザイナーでもある。

・能登島グラスアートナウ・コンペ審査員特別賞

・千葉ガーデンタウン(BCS賞)

・東京サンシティ (建設大臣賞)

・パークシティ新川崎・大阪ベルパークシティ(大阪まちなみ賞)等のランドスケープデザインを手がける。

書家 柳田泰山

書家。「泰書曾」主宰。

1950年、書家・柳田泰雲の四男として生まれる。経典め百箇寺奉納の大志を立て、高幡不動尊、浅草寺、大本山成田山新勝寺、永平寺、池上本門寺、奈良興福寺などへ納経。いずれも二千数百字~三千余字の大作。

1999年、日本橋高鳥屋で「泰山楷書作品展」を開催。

2002年には、日中国交正常化三十周年記念に際し、人民大会堂、釣魚臺国賓館、泰安市新市庁舎に作品を寄贈した。

父・泰雲の盟友であった藤沢秀行名誉棋聖の書展を指導・協力。

2010年11月、北京・中国美術館にて「柳田泰山北京書法展」開催。