吉川家と意外な関係から吉川家系図や吉川家墓所の写真など。
瑠璃光寺と吉川家?
ご存知、国宝「瑠璃光寺五重の塔」です。夜は22時までライトアップされ幻想的な姿に変貌します。あれっ??、「瑠璃光寺」と「錦帯橋」の吉川氏は何の関係があるの?っと、お思いの方もおられるでしょう。実は関係があります。はじめに瑠璃光寺、五重塔と伝説からお話を始めます。
勘違い
山口県山口市の県庁横「香山公園」にある国宝「五重塔」は「瑠璃光寺」という名称ではありません。正式には「七道伽藍」というお寺の建立物のひとつです。よって現在の「瑠璃光寺」に隣接する「五重塔」なのです。二つは全く別物です。同じ公園内に建立されているため誤解が多いのです。では、「瑠璃光寺」と「五重塔」を個々に説明致します。
瑠璃光寺
- 1467年-応仁元年(1477年-文明九年)
- 応仁の乱、「陶弘房」、「大内政弘」と出陣し京都で戦死します。
- 1471年-文明三年
- 「陶弘房」夫人により仁保村小高野に大庵須益和尚開山による「安養寺」を建立します。
- 1492年-明応元年
- 「陶弘房」二十五回忌の時、「安養寺」の隣に瑠璃光寺を建立し安養寺旧地を寄進、このとき、「陶弘房」の法号も「泉福院殿文月道周大居士」を「瑠璃光寺殿文月道周大禅定門」と改称します。
- 1499年-明応八年
- 「安養寺」は焼失してしまいますが仁保村門前寺山に移し再建いたします。
- 1586年-天正十四年十二月
- 毛利元就の次男「吉川元春」は豊前小倉の陣中で没し、安芸国山県郡原村新条(大朝町新条)に葬られ、瑠璃光寺を牌所とします。
- 1609年
- 瑠璃光寺を「吉川元春」の法号に因んでを牌所「海翁寺」と改められます。
- 1613年-慶応十八年
- 「吉川元春」の曾孫、吉川二代目当主で正室は毛利元就の孫「毛利輝元」(後述)と「二の丸様」(後述)の嫡子長女「高玄院竹姫」の夫「吉川広正」により、寺号「瑠璃光寺」に復されます。•現在の「瑠璃光寺」1690年-元禄三年、保寧山「瑠璃光寺」は現在の「香山公園」内の「香積寺」(後述)の跡地に移されます。
宇部「天龍寺」
天龍寺は信田丸城杉重良菩提寺及び長州三家老「国司親相」国司家菩提寺で「瑠璃光寺」三世「桃岳瑞見」開山、「国司親相」は京都「蛤御門の変(禁門の変)」をこの天龍寺の横にある「若一王子社-びゃくいちおうじしゃ」に祈願し進発しました。
元就の妻は本流「吉川家」
天野隆重と夫人之墓 当初の吉川家は大内氏とは敵対関係であった尼子氏系で毛利家よりは家柄は上でした。尼子経久は和睦のため元就に吉川家との縁談を持ちかけ、 元就はこれに応じた訳です。しかし後に尼子氏に打ち勝ち、妻の実兄の子(甥)「吉川興経」へ元就次男「元春」を送った(養子)後、吉川家の血筋を途絶えさせ、吉川家を毛利系にします。
戦略の天才、勇将「天野隆重」は元就の命の下、吉川家代々の嫡流は断絶させるため「吉川興経」とその嫡子「千法師」を殺害しました。岩国市玖珂「通化寺」には、「天野隆重」と夫人及び子「天野元嘉夫婦」の墓所があります。
吉川家家紋「九曜紋」
吉川家家紋「九曜紋」 芸州大朝庄(現在広島県山県郡大朝町)の地頭をしていた吉川興経に継嗣がなく(※)、毛利元就の次男「元春」を養子として迎えたのである。
豊臣秀吉九州征伐のとき、元春、毛利輝元を援けて出陣小倉城に陣取っていたのであるが、城中で急病死した。時に天正十四年(1586)十一月十五日で行年五十七才であった。
その翌日の夜、元春の長男元長は使いを仁保(現在山口市仁保)の瑠璃光寺に出して、その葬儀執行を依頼してきた。時の住職十一世華翁圭岳、早速伴僧二十余名を引き連れて、その夜仁保を出発、遺骸は丁重に連れ帰り十二月八日滞りなく葬儀を終えた。
元春の法名は「髄浪院殿海翁正恵大居士」と号された。この時より瑠璃光寺を元春の牌所とされ、寺号を海翁寺と改めたのである。又寺の紋章もそれまで大内菱であったものを吉川家の定紋九曜紋に改めたのである。
その後、吉川元春の孫、「吉川広正」の時、元の瑠璃光寺は門末三百余ヶ寺もあり又僧録司の役も持っている名刹であるので、やはり寺号は元に復したらと、藩の了承を得て瑠璃光寺に復号した。しかし、寺紋については特に関与せず、そのまま九曜紋は寺絞として残さ今日に至っている。
今でも岩国の吉川家の関係するいろいろなものには九曜紋が残されている。実はこの九曜紋であるが、全国的に各所で使用されているが、その図柄が真中の丸が無垢で塗られているのが普通であるが、吉川家の九曜紋だけは中の丸がドーナツ型で中が空洞になっていて珍しい九曜紋なのである。
[香山公園内販売のパンフレットより]
※諸説あるがここでは割愛する。
九曜紋