錦帯橋-下巻-椎尾八幡宮

錦帯橋-下巻-

吉香公園内の他の史跡や公園の近くの山陽道にある宇野千代生家などを紹介。

椎尾八幡宮-旧岩国藩の国司社

椎尾八幡宮-旧岩国藩の国司社

しいのおはちまんぐう

椎尾八幡宮略縁起

御祭神 誉田別命 ・足仲彦命 ・息長帯比売命

相殿 猿田彦神

 當宮は後水尾天皇の寛永三年(1626)に、時の岩国二代藩主吉川美濃守廣正公が、吉川歴朝の守護神である駿河八幡宮(この駿河八幡宮は吉川氏の始祖、経義公が、その昔、駿河国有度郡吉河邑(今の静岡県清水市)に住し、其の地方の豪族として在りし頃、文治二年(1186)に鎌倉の鶴岡八幡宮より神霊を勧請したるに起因す。)の神霊を郡内由宇村より現地に奉遷し、同時に、太古、岩国山東北の谷に古き社祠あり。山麓の谷々は現在和木町に属する瀬田、関ケ浜部落で、其の地に椎尾と称する地名あり、古き社祠にて猿田彦神を祀る。此の神、伝えによれば、遠き神代の昔、皇孫御降臨の砌り、道案内として、此の岩国山を御通過の折、暫く伊勢ケ丘の峯にて御腰をかけ給い因縁あり。その神跡を偲びてか、往古より道中安全の守護神として広く旅人に崇められ、聖武天皇天平二年(730)大宰小典山口忌寸若麻呂、この山を越す時、「周防なる磐国山を越えむ日は手向けよくせよあらき其の道」(万葉集巻四)に詠めり。それより後、後土御門天皇文明十二年(1480)宗祇法師諸国行脚の砌り、この山に差しかゝり無礼あり、彼が馬、俄に倒れて進まず、宗祇は困り里人に助けを求めた処、里人この時、此の神「人の不浄不敬を咎め給う事、諸神にまされり、旅人神慮に添わざる振舞あらば其の誤りを謝して祈り給え」と話す。宗祇神前に額づき誓願誠心を尽くすと馬、不思議に前の如く進み、宗祇この時、万葉の歌を飜詠して「周防なる岩国山を越えむ日は手向けよくせよ荒木楚の神」と詠めり。是より此の神を荒競の神とも云い、別名、荒木曽神社とも称さる。則ち、藩主吉川廣正公、この神霊と八幡大神とを合せ祀りて、現地山陵を切開き祠殿を建立して、茲に、号を椎尾八幡宮と称し、爾来吉川歴代藩主にあっても代々厚く崇敬せられ、更に岩国藩国家万民の鎮護社として、また、當町郷人の産土神として、広く世人の敬仰さるゝ宗社として現今に至れり。

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