吉川家と意外な関係から吉川家系図や吉川家墓所の写真など。
香山公園内毛利家墓所の謎
同じく「香山公園」には毛利家墓所がある。実はこの墓所の裏側(正面にして左裏側)には毛利家本家にとって重要な方のお墓がある。毛利元就の孫であり誰もが耳にしたことがある毛利家天下の分かれ目になった「関ヶ原の戦い」の主役でもある「毛利輝元」側室「周姫」(かねひめ)こと、「二の丸様」のお墓である。
正室「清光院様」との間に子が無かった「毛利輝元」(養子はいた)は側室「二の丸様」との間に3人の子を授かるがその長男は後に長州藩初代藩主となる「毛利秀就」、次男は徳山毛利家初代藩主(降松→野上→徳山)「毛利就隆」、そして長女は2代目岩国領主「吉川広正」の室となる「竹姫」である。
このような重要なお方のお墓を、隠されたようにも思える二の丸様のお墓は便宜上なのか意図的なのかは定かではないが、ここで二の丸様についてふれておきます。
古老物語
以下は古老物語・防長古今見聞集、三坂圭治、マツノ書店 昭和51年(1976)出版の原文抜粋です。
古老物語・防長古今見聞集 著者三坂圭治氏
上記は「候文」にて非常に判り辛いですね。簡単に口語略するとこうなります。
古老物語
(2010.10.05一部変更)
児玉元良(毛利輝元の家臣、広島領内)の娘が幼少の頃(生誕1572)、家の前で遊んでいたところを毛利輝元公が通りかかりにご覧になった。その時、輝元公は「未だ幼いけれど美しい女じゃ」とお思いになった。
児玉元良は広島の自宅に度々帰られた(主君輝元公が度々来られる為)。 児玉元良は娘を溺愛していたが、娘が十二才(1584)の時に、防州野上(現在の周南市徳山)の杉小次郎(輝元家臣、現在の周南市徳山領主、杉元宣の幼名、1589年没、菩提寺興元寺)と結婚をさせた。
これにより児玉元良の娘を好意に思う輝元公は、この婚姻のことを知り落胆していた。
ある日、佐世石見守(輝元家臣、佐世元嘉)が輝元公に「どうかなさいましたか?」と尋ねると「落胆しておる」と申され、その事情を詳しく話した。この事を知った佐世石見守(輝元家臣、佐世元嘉)は、杉山土佐・杉山清兵衛父子及び脇某と申す者の三人を遣い杉小次郎の妻(児玉元良の娘)の乳母「久芳の局」(久芳五郎左衛門の祖)を共謀させた。
乳母「久芳の局」(久芳五郎左衛門の祖)は杉小次郎の妻(児玉元良の娘)へ次のように申した。(1586年この頃毛利勢小早川氏(毛利元就三男、輝元公の叔父、輝元公補佐役)は九州攻略中にて杉小次郎は意図的に派遣されたとも)「杉小次郎殿は筑前(福岡県)に長く滞在されることになったので 杉小次郎殿は姫(杉小次郎の妻)をお呼びなられる筈です」と申し野上(現在の周南市徳山)から船に乗せた。そして船内で杉山土佐・杉山清兵衛父子が次のように申した。「このまま筑前(福岡)へ行かますと当分の間、父上児玉元良殿とお会いすることができなくなりますので、まず芸州広島へ寄られ御両親にお会いになられては?」しかし、姫(杉小次郎の妻)は十五歳になっており不審に思った姫(杉小次郎の妻)は「広島には行きませぬ」と申したが強硬に広島廿日市へ船を向けた。
その途中、船内で杉山土佐・杉山清兵衛父子らは料理料理を振舞い姫(杉小次郎の妻)の御付の家来達を酒に酔せ、殺害し姫(杉小次郎の妻)を拘束し芸州広島へ到着した。
姫(杉小次郎の妻)は事の経緯を夫、杉小次郎殿に連絡し 脇差(小刀)を取り出し髪をお切りになられた。 その後、芸州広島で輝元公は姫(杉小次郎の妻)と対面し広島城の「二ノ丸」に監禁された。 広島城の「二ノ丸」に置かれた姫(杉小次郎の妻)は以降「二の丸様」と言われるようになった。
さて、事の次第を筑前で知った杉小次郎は輝元公を恨み、急遽、船で帰るところを 小早川隆景(毛利元就三男、輝元公の叔父、輝元公補佐役)公の手により殺害された。
しかし、この事は伏せられ公には杉小次郎殿は、「風で船が沈み溺死した」とされた。その上、小早川隆景公は、 一連に関係した杉山土佐・杉山清兵衛父子と脇某と申す者、及び「久芳の局」(久芳五郎左衛門の祖)は殺害するよう命じた。
その噂を耳にした、 杉山土佐・杉山清兵衛父子は大阪で浪人となった。 脇某と申す者と「久芳の局」(久芳五郎左衛門の祖)は小早川隆景公より自害を命じられた。
脇某と申す者と「久芳の局」(久芳五郎左衛門の祖)は輝元公の命で「二の丸様」を奪い取って何たる無情な事と毛利輝元公と毛利秀就(輝元の長男)を恨み申したという。
「二の丸様」は、輝元公が大阪におられる時に 大阪へ参る事となった。 大阪へ向かう途中、大浦という所に船が着いた時、 上方(京都や大阪へ向かう)船の船頭に「どちらへ向かわれますか」と尋ねられた。「芸州の輝元公簾中」と答えるといかがわしく思われたので「二の丸様」は大阪へ上るのをやめ、途中から芸州広島へ戻られた。
その後、「二の丸様」は秀就公(輝元長男)をお産みになられた。秀就公(輝元長男)出生の喜びの便りを差し出された。
これらの事は、杉山家(杉山土佐・杉山清兵衛父子)の覚書に記されている。
また、世間がいうには「清光院様(輝元公正室)は、疾妬されていた」という。 故に「二の丸様」は下関から長門綾木(山口県美祢市美東町綾木)へお越しなされた(綾木「明林寺」には「二の丸様」の実姉妹が嫁いでいる)。
その長門綾木(山口県美祢市美東町綾木)で「二の丸様」は秀就公(輝元長男)をご出産されたという。 その後、佐世石見守(輝元家臣、佐世元嘉)の取り計らいで清光院様(輝元公正室)のご納得の上で「二の丸様」は芸州広島へお越しなされたという。 これにより、「二の丸様」を「綾木の御方」と申すようになったとも伝えられてる。
杉小次郎父子之墓所
この「古老物語」の他にも酷似(若干内容は異なるが本筋は同じ)した古文書は数冊存在する。写真は「興元寺」の小次郎父子の墓所で調度、真後ろには没した当時に植えられたと思われる、正しく「杉」の木が植えられ現在では大木に成長している。小次郎は幼名で杉元宣と言い、父は杉元相、当初の「杉」の字は「椙」と書かれていた。小次郎「杉元宣」の享年は18歳位と思われる。この墓所は周南市指定文化財となっている。
興元寺
「興元寺」の山号は「萬徳山」、輝元公と二の丸様の摘子次男「毛利就隆」は始め下松に屋敷を構えるが後に徳山に変える、このときの徳山の地名は「野上」だったが、この「興元寺」の山号「萬徳山」から「徳山」と名付けたとあるが。
深龍寺
防長風土注進案にも記されているが錦町にある「深龍寺」には古老物語にも登場する二の丸様の乳母「久芳の局」の墓がある。「久芳の局」がお住まいになられた頃はこの寺は対面の山、やや麓にあったという。乳母「久芳の局」様は慶長六年(1601)ここで斬首されたと防長風土注進案に記されている。(書には、毛利秀就(大照院)乳母、張六左衛門と密通したとされ幽閉処刑されたが後に無実と判った。)
また、二の丸伝説とは年代が違う為、関連性は無いが、現在の場所の前に河内神社が建てられているがその右手には深川氏館があったという。錦町深川などを領していた「深龍寺」開基三家本備前守「深川胤兼」といい大内義隆に仕えていた。深龍寺銅鐘天文二年(1533)に寄進した銅鐘及び同十三年に補修した大乗経二百巻が深龍寺に現存する。その後屋敷を替え深龍寺に寄付したが洪水により流されたという。この銅鐘は岩国市指定文化財に指定されている。
朝霞城
また、数キロ離れた処に「朝霞城」山城跡がありその麓には輝元に仕えた朝霞城主渡辺氏の墓所がある。菩提寺はさらに麓の「長栄寺」。
山口市「姫山」伝説
山口県山口市の問田地区には姫山城登山口がある。その登り小口に案内板があります(写真)。
姫山は、四季を通じて川面に優美な姿を映しており、大内を象徴する山である。この山は、地理的に三田尻から、あるいは陶、嘉川方面から山口へ進攻するにも街道を見下ろす要地として、城郭に格好のところであり、城もしくは、砦が設けられていたと伝えられる。また、火の山としての伝達手段に使われたと伝えられている。
一方、この山には悲哀な女性の物語が伝えられている。その昔、殿様が美女を見初めて、無体な恋慕をよせ、殿中に捕らえ入れて想いをとげようとしたが、美女は節操深く殿様の邪意を受け入れなかった。殿様は美女を縛って城の井戸に釣り下げ蛇せめにした。美女は悶え苦しみ、美しく生まれた身のつらさを、二度と後々の女性にさせぬため「この山の上から見えるかぎりの土地では、永久に容色兼英の女性は生まれぬように」と悲しみ悶え死んだという。
姫山の名はこれに由来するというのである。(大内さとづくりまちづくり推進協議会)後述する山口市糸米地区とは川を隔て少し距離はあるが、二の丸様は姫山に登り美しい山口の都を見下ろし侍女達に「この山の上から見えるかぎりの土地では、永久に容色兼英の女性は生まれぬように」と言ったのかもしれない。
この姫山城は内藤隆世の城で弘治二年(1556)、杉重輔(若山城攻略)を討った後、毛利氏に服している。このほかこの問田地区には問田氏屋敷遺構や隆景寺跡(小早川隆景夫人慈光院の邸址)もあり歴史上、重要地区でもある。