吉川家と意外な関係から吉川家系図や吉川家墓所の写真など。
二の丸様御逝去享年32歳
二の丸様はここ山口市、障子ケ岳城(向山とも)麓の糸米「覚皇寺」で永眠された。障子ケ岳城は標高100mの小高い山だがその麓、糸米側の妙見社近くで「内藤興盛」の子「内藤隆春」(荒滝山城主)と「内藤興盛」の娘の子(大内義隆の子)「問田亀鶴」主従が生死をかけ争った地です。二の丸様は「内藤興盛」の眠るお墓の傍らに葬られますが糸米地区は因果な地と感じます。「覚皇寺」は現在痕跡もありませんが同じ糸米にあった「大歳社」(現在碑のみ)の御神木「大ムク」が現在も糸米を見守っています。
毛利輝元とは
毛利と言えば一般的には「元就」が有名ですが、実際はこの「輝元」と「敬親(慶親)」ではないでしょうか?。
毛利輝元卿は一五五三~一六二五安土桃山時代の大名。
天文二十二年(一五五三)正月二十二日毛利隆元の長男として生まれ、母は大内義隆の養女(内藤興盛の娘)、幼名は幸鶴丸、永禄六年(一五六三)父の急死によって家督を相続、祖父元就の後見をうけ、同八年元服し将軍足利義輝の一字を拝領して少輔太郎輝元と称す。元亀二年元就死没後は、両叔吉川元春と小早川隆景の補佐をうけて出雲国から尼子勝久・山中幸盛らを追放し、備前国の浦上宗景を圧迫し、讃岐国にも兵を入れるが、このころ京都を制し、播磨国に進出してきた織田氏勢力と接触する。天正四年五月領内の備後国鞆浦に逃れてきた
前将軍足利義昭を奉じて織田氏に対抗、織田氏の武将羽柴秀吉が播磨国に追撃し、織田氏勢力に圧せられる。同十年六月備中高松城下(岡山市高松)で講和成立直後に本能寺の変を知るが講和を守って追撃せず、秀吉の中央での制覇に好機を与える。豊臣政権下に入っては四国出征・九州出征において共に先鋒をつとめ、同十六年上洛し、緊楽第を訪問、ついで内裏に参内し参議に任官される(安芸宰相)。天正十七年四月から太田川口のデルタに築城を始め、この地を広島と命名、本拠を吉田郡山城からここに移す。同十九年三月秀吉から安芸・周防・長門・石見・出雲・備後・隠岐七か国および伯耆国三郡と備中国内で百十二万石の知行目録を与えられる。慶長二年(一五九七)に豊臣政権の五大老に列せられ、翌三年秀吉の死去にあたって秀頼の補佐を委託される。
萩天樹院関ヶ原の戦いでは、自身は大阪西の丸にあって、西軍の総師とみなされたため七ヵ国を削られ周防・長門両国に減封された。同五年十月薙髪して隠居して法号を宗瑞また幻庵といった。同時に隠居し家督を六歳の秀就に譲る。同九年十一月長門国阿武郡萩指月山に築城して移る。寛永二年(一六二五)四月二十七日萩城内で死没。七十三歳、法名は天樹院殿前黄門雲巌宗瑞大居士。
萩「天樹院」案内板より
児玉元良
二の丸様の父は毛利五奉行「児玉元良」、祖父は「児玉就忠」、毛利元就御座備図、毛利十八将にも名を連ねる。写真は萩博物館所蔵「毛利元就御座備図」で上から毛利元就、毛利隆元、宍戸隆家、吉川元春、小早川隆景、福原貞俊、桂元澄、児玉就忠、志道広良、口羽通良、渡辺 長、熊谷信直である。
又、二の丸様の実兄「児玉元兼」の子孫は日露戦争を勝利に導いた「児玉源太郎」(周南市出身)である。周南市徳山地区には「児玉神社」や「生誕地」などの碑や遺構が大切に残されている。
長男「毛利秀就」の出生地
毛利家を受け継ぐ「毛利輝元」の長男「毛利秀就」(のち長州藩初代藩主)は広島城で生まれた事が通説となっていますが、防長風土注進案では宇部とあり、上記「古老物語」では「綾木にて秀就公被成御出生候」とあり、又、通説では広島城となってます。綾木(美祢)の地域でそれらしい処を調べたところ、「二の丸様」の実姉(父「毛利元就」重臣「児玉元良」)が嫁いだ寺院(第三代目室)があった月松山「明林寺」である。
何度か足を運び、早世された先代和尚の跡を若くして継がれた現和尚の母上にお話をする事が出来た。話によればその説もあるが午前中までここに訪れておられた歴史研究家(元教師)の平山智昭氏は「注進案」論を唱えるとのことでした。
その平山氏によれば長男「毛利秀就」は防長風土注進案に記されている現在の宇部市小野で生まれたのではないかと根拠と共に推測されておられます。
「二の丸様」関係史
「もし」ボクシングのジャッジのように公平・中立な立場で記されることが出来たなら・・
古い歴史の史実は事実と異なる場合が存分にある。当時の階級の格差は現在とは比べようもなく、残された古文書を記した者は大きな制約の下、書かれたものだからです。現在のように言論の自由もなくビデオやカメラ等もなく立証出来るものは何もありません。唯一、鍵となるものは遺構くらいのものでしょう。お墓(年代が違うものもある)や古文書は史実をかく乱してしまう可能性もあります。
歴史の面白さは残された「物」から想像出来る楽しさだと思います。「二の丸様」のお話も逆に考える事も出来ます。兎角、男性は本能からか女性を匿う習性があります。関係書籍を書かれておられる先生方も男性が圧倒的に多いのも事実です。
「二の丸様」は「輝元公」との間に3人もの子を授かった、という事は二人は「相当期間」親しき仲であった事は否めません。「二の丸様」の自から記した書き物が無いため、前夫「元宣」(小次郎)との気持ち(純愛?)は判りませんが、弱肉強食の時代、以後の家系(父や兄弟)の事を考えれば多国の大殿「輝元」と結ばれることを自ら望んだのではないでしょうか?または何らかの理由で前の夫と「別れたい」気持ちがあったのかもしれません。現在ではよくある話です。本当に辛い気持ちがあるのであれば当時の志ならば自決も安易であった筈、よって父程離れた歳の「輝元公」を求愛したとも考えられます。逆に二の丸様が「輝元公」を「略奪」、そう仮説をたてた上でも十分、その後の話に「辻褄」が合います。さてこの「物語」、満更デタラメではなさそうですがどう考えますか?