英霊鎮魂
「英霊鎮魂」
巨人軍監督 長島茂雄
平成八年三月一日
訓練施設
「回天」の訓練施設は全国に4箇所ありましたが、大津島基地が最も早く開設され、さらに当時の施設が現在も残っているのも唯一、この基地だけです。現在も数多くの遺跡が残っていますが、そのシンボル的存在となっている発射訓練基地は、1938(昭和13)年から建設工事を開始。この施設はケーソンを使って建てられており、総工費は83万円(当時の金額)でした。
高性能な魚雷
大津島では、1937(昭和12)年に当時の日本海軍が世界に誇りました高性能な魚雷、九三式酸素魚雷の発射試験場が建設されていました。その後、九三式酸素魚雷を推進装置として使用した「回天」の誕生とともに、新たに訓練基地隊が1944(昭和19)年9月1日に関隊され、5日から訓練を開始しました。
危険物貯蔵庫跡
魚雷点火試験場跡
訓練にも使用された階段跡
整備工場壁跡
運搬用トンネル
回天発射訓練基地跡地トンネルを抜けると、太平洋戦争末期に考案された、人間魚雷「回天」の発射訓練基地跡地があります。
運搬用トンネル中
魚雷見張所跡
人間魚雷「回天」発射訓練基地跡
人間魚雷「回天」の訓練場となった発射基 地跡が海上へ突き出て、当時のまま残されている。見学自由。
昇降用クレーン跡
回天の訓練には5つのコースが設定してありましたが、この発射基地がスタートとなったコースは3つあり、馬島や大津島、野島を回って最終的には整備工場まで帰ってくるルートとなっていました。
九三式酸素魚雷発射口跡
なお、この施設は2006(平成18)年に土木学会選奨土木遺産として土木学会中国支部から認定を受けてしいます。
飛行科入口門跡
飛行科控所跡
変電所跡
魚雷見張所跡
兵舎
現在は大津島小学校のグラウンドとなっていますが、当時そこには兵舎があり、出撃する隊員はその場所の東側にあった桟橋から内火艇に乗り、沖合いに待機している「回天」を搭載したイ号潜水鑑に乗り移り戦地へ向かいました。
人間魚雷「回天」に関わる遺品
人間魚雷「回天」に関わる遺品、資料の展示を中心に回天の歴史や時代の背景、当時の生活などをパネル展示で紹介しています。詳しくはココ
研究室、視聴覚コーナーなどを備え、回天の心を通じ平和について学習する施設です。