不落の名橋「錦帯橋」や岩国城等、写真や図を交えご紹介します。
岩国城-横山城-
いわくにじょう-よこやまじょう
主な遺構、旧天守台~岩国城天守閣~大釣井~空堀~石橋~二の丸広場~石垣(石積み)。
岩国城跡旧天守台について
岩国城は、江戸時代には珍しく、山上に築かれた近世城郭である。この城郭は、毛利氏の一族、吉川広家(きっかわひろいえ)が慶長8年(1603)に着工、同1613年に完成したが、元和(げんな)元年(1615)一国一城令により破却された。
城郭の中心となる天守台は、古式穴太積み(こしきあのうづみ)と呼ばれる石積みを基本としながらも、戦国時代に、地方独自の石積みの技術が加わった形で造られた構造物である。
天守台の石垣は、大きめの石と、すき間に詰めた小さめの石からなり、隅部の角石(すみいし)には算木(さんぎ)積みの技法が見られる。その隅部には、反(そ)りはなく、ほぼ直線上の稜線に仕上げられており、見かけの美しさよりも構造力学上の安全性に重点を置いた造りになっている。これにより、戦国武将吉川氏の石垣の力強さを垣間見ることができる。
発掘調査時の旧天守台
岩国城天守閣由来
岩国城は、吉川家17代の広家公が慶長五年岩国に移封されてより建設が計画され、先ず最初に山麓に平生の居舘を溝え、ついで横山の要害を城と呼び、山麓の館を土居と称した。
岩国城は、慶長8年、二宮佐渡が鍬初めを行い築城奉行に松岡安右ヱ門、租式九右ヱ門、二宮兵介、吉田宗右ヱ門等 を任用し、五年の歳用を要して慶長13年(西暦1608年) に山頂の要害はことごとく完成し城藩制が定められた。
築城当時の岩国城の規模
城山の尾根沿いに長さ180m、横に108m~154m、石垣の高さ5.4m、天守閣は桃山風の南蛮造りと言われ、四層五階で本丸の北隅にそびえていた。この外に矢倉五棟、折り回し大門二門、埋門一門、井戸二堀があった。
横山側の前方を大手とし、御庄後方を搦手として錦川を隔てて北方に安芸境をにらんでいた。
元和元年(西暦1615年)6月、徳川幕府の一国一城の制により取り壊しにあった。その後城跡は石垣の一部を残し荒涼たること約360年にして昭和36年3月復元工事に着手し、昭和37年3月に竣工したものである。