錦帯橋-上巻-吉川家 経幹 墓所

錦帯橋-上巻-

吉川家と意外な関係から吉川家系図や吉川家墓所の写真など。

吉川家家紋 吉川家初代広家~12代経幹までの当主や一族のお墓、全51基

 

12代藩主 吉川 経幹

11代藩主 吉川 経章12代藩主 吉川 経幹12代藩主 吉川 経幹12代藩主 吉川 経幹

きっかわ つねまさ

没年 1867.03.20 享年39歳

 1864年元治元年第一次長州征伐、1866年慶応2年第2次長州征伐の動乱の中、死去するがその死は隠され1868年慶応4年実質正式な藩主となる約9ヵ月後、長男「経健」に家督を譲る形をとる。経幹公はあの世で念願の藩主と認められたわけである。

順正夫人-じゅんせいふじん

順正夫人-じゅんせいふじん順正夫人-じゅんせいふじん順正夫人-じゅんせいふじん順正夫人-じゅんせいふじん

備中足守藩主 木下利恭の娘 順子

没年 1891.02.07 享年57歳

「誰が袖」の手水鉢-たがそでのちょうずばち

「誰が袖」の手水鉢-たがそでのちょうずばち「誰が袖」の手水鉢-たがそでのちょうずばち「誰が袖」の手水鉢-たがそでのちょうずばち

 この手水鉢は、着物の袖に形が似ていることから、「誰が袖」の手水鉢と呼ばれ、小堀遠州(こぼりえんしゅう小堀政一)が造ったものといわれています。

 経幹の姉の夫、小堀勝太郎(遠州の末家)が弘化3年(1846)に経幹へ贈りました。後に、毛利家と仲直りした時、毛利慶親(よしちか)[別名:敬親]に贈り、その写しを造って残したものです。

小堀遠州(こぼりえんしゅう小堀政一)

徳川家康に仕えた江戸時代前期の大名→備中松山藩2代藩主→近江小室藩初代藩主。

嘗て県庁内にあった露山堂の「誰が袖」の手水鉢、現在は山口「香山公園」にある。

嘗て県庁内にあった露山堂の「誰が袖」の手水鉢、現在は山口「香山公園」にある。嘗て県庁内にあった露山堂の「誰が袖」の手水鉢、現在は山口「香山公園」にある。嘗て県庁内にあった露山堂の「誰が袖」の手水鉢、現在は山口「香山公園」にある。

澄心孺人-ちょうしんふじん

澄心孺人-ちょうしんふじん澄心孺人-ちょうしんふじん

側室

井上延治の娘 寿美

没年 1884.04.18 享年不明

友千代-ともちよ

11代藩主 吉川 経章友千代-ともちよ

長男

没年 1854.06.10 享年3歳

数姫-かずひめ

11代藩主 吉川 経章数姫-かずひめ

没年 1858.05.26 享年3歳

墓所内の様子

墓所内の様子12代藩主のお墓はこの階段から上がります。

 

吉川家歴代藩主 読み 生涯
初代藩主 広家 ひろいえ 1561~1625
2代藩主 広正 ひろまさ 1601~1666
3代藩主 広嘉 ひろよし 1621~1679
4代藩主 広紀 ひろのり 1658~1696
5代藩主 広逵 ひろみち 1695~1715
6代藩主 経永 つねなが 1714~1764
7代藩主 経倫 つねもと 1746~1803
8代藩主 経忠 つねただ 1766~1803
9代藩主 経賢 つねかた 1791~1806
10代藩主 経礼 つねひろ 1793~1836
11代藩主 経章 つねあきら 1794~1843
12代藩主 経幹 つねまさ 1829~1867
13代藩主 経健 つねたけ 1855~1909
14代藩主 元光 もとみつ 1894~1953
15代藩主 重喜 しげよし 1925~1999

※6代経永、13代経健のお墓は「実相院」へ