吉川家と意外な関係から吉川家系図や吉川家墓所の写真など。
瑠璃光寺と吉川家?
「吉川広嘉」による岩国名勝「錦帯橋」
1674年完成の、前項「吉川広正」の長男「吉川広嘉」による岩国名勝「錦帯橋」(二代目)、は276年後の「キジヤ台風」(1950年[昭和25年]9月14日)まで大きな改修を行うことなく日本三大名橋の威厳を保ちました。
五重塔
- 年月不明
- 現在の瑠璃光寺の地に大内25代守護大名「大内義弘」が「石屏子介禅師」を迎え「香積寺(こうしゃくじ)」を建立。
- 1371年-建徳二年
- 「大内義弘」南朝方の武将と戦う。
- 1391年-明徳二年
- 「大内義弘」は南北朝統一に貢献する。
- 1399年-応永六年
- 応永の乱、十一月二十九日~十二月二十一日、三代将軍「足利義満」(室町幕府)に大阪の堺「堺篭城」にて挙兵するも敗北、「天下無双の名将」「大内義弘」没。「大内弘茂」は幕府「足利義満」側に従い「大内義弘」の弟で「大内弘茂」の兄でもある「大内盛見」を攻める。
- 1401年-応永八年
- 九州にて「大内盛見」は再挙し、弟「大内弘茂」を下関市長府の「佐加利山城」にて滅ぼす。
- 1442年-喜吉二年
- 二月六日、大内26代「大内盛見」により、兄「大内義弘」の菩提寺として五重塔が建立(解体の際の墨書銘より)、しかし「大内盛見」は完成前の1431年に討死する。「大内盛見」の戒名「香積寺殿道春梅窓大居士」の位牌が五重塔の阿弥陀如来像の横にある。
- 1603年-慶長八年
- 「毛利輝元」(後述)が「香積寺」を一時的ではあるが毛利元就の菩提寺にする。
- 1604年-慶長九年
- 「香積寺」は一説には「毛利輝元」(後述)により解体され、現在の萩城などに使われたとされる。又、武将兼僧侶「安国寺恵瓊(関が原にて処刑)」により広島市牛田の国宝「不動院金堂」へ移築された説が断定的です。その金堂の天井には「天文九庚子年往山前建長心月痩受竺」「天文九庚子冬十月日僧永怡画而寄付」「永怡畫而寄附之」とあり「心月受竺」は「香積寺」の持住で同じ山口市の「今八幡宮」でも名を残すことから裏付けるとされる。尚、それまでの定説では国宝「不動院金堂」は突如消えた寺で有名な山口の「凌雲寺」が有力候補でありました。一方、五重塔も移設案がありましたが山口町民の嘆願により現在の地に残されたという。大内盛見時代に建立された建造物は下関の住吉神社など国宝指定が多く存在する。
もうひとつあった「幻の五重塔」
仁平寺古跡庵一字
相伝ふ當寺は近衛院仁平元辛意未年(一一五一)の草創にして年号を寺の名とす云々寺跡の南少し小高き所に五重塔の礎在せり二歩許(約二歩)
土人伝
ことし天保十三年(一八四二)より凡百年はかりも前つかたまては、五重塔朽なから立りしか、いつしか前なる池に倒れつるをまのあたり見たりしと古老の語り傅へありとそ、其池より塔の朽木を拾ひとりとて器材に造りたる人多しといへり當寺の本堂ありし所にいたる道の左右に、本坊東蔵坊秀賢坊禅智坊蓮池坊名本堂供養日記に見ゆといへる池の名あり、本坊といふ地の後の方に御風呂屋といふ小名あり、寺家といふ名もあり観応三年(一三五二)仁平寺本堂供養日記に寺家平四郎跡といふことあり仁王堂といふ地名もあり、その仁王の像の朽たるか今日吉山王の棲門上にあることかの條にいへり又、永徳二年大般若経ある事も同し條に○たり、また氷上山大堂のうちに、応永十二年(一四〇五)仁平寺常住と彫れる山王慈覚大師の模板あることも同し條にいへり
防長風土注進案 12 山口宰判 上 周防国吉敷郡 問田村志 抜粋
本堂、本坊、東蔵坊、秀賢坊、禅智坊、蓮池坊、塔頭、五重塔、観音堂、寺家、御風呂屋等があった。
大内氏の盛時は「七道伽藍」(しちどうがらん※)皆揃っていた。
五重塔の礎石は溜池を築造するときとり除かれ十六箇ばかり1ヶ所にあつめられている。心礎と思われる石は溜池の中に残っていたがそのため池もいつか水は枯れてしまった。その付近に仁平寺の歴住の墓と思われる印塔が数基と開山とほった一基の墓もある。
(現在は移動しまとめられている)
仁平寺は明治初年(一八六八)頃には全く荒廃して、僅かに観音堂のみが残っていて、明治三年(一八七〇)十月十八日には小鯖村「禅昌寺」にひきとられた。
(現仁平寺案内板)
※寺の主な七つの建立物、仏殿(仏像家)・法堂(講義家)・僧堂(僧住家)・庫裡(住家)・山門(正門)・東司(便所)・浴室(風呂)など、又そのように多くの建立物を所有する寺院をさす。