吉川家と意外な関係から吉川家系図や吉川家墓所の写真など。
山口県の史跡 毛利元就が息子三人に宛てた有名な教訓状
所蔵 山口県 毛利博物館 毛利家文書四〇五 毛利元就自筆書状
縦28.9cm 横 285.4cm
口語訳
一 唯今虫けらのやうなる子とも候、かやうの者、もしー此内かしらまたく成人候するハ、心もちなとかたのことくにも候するをは、れんみん候て、何方之遠境なとニも可被置候、又ひやうろく無力之者たるへきハ治定之事候間、さ様之者をは何とやうに被申付候共、はからひにて候ー、何共不存候ー、今日まての心持、速ニ此分候、三人と五竜之事ハ、少もわるく御入候者、我々ニたいし候ての御不孝迄候ー、更無別候ー、
一、ただいま元就には虫けらにも似た分別のない庶子がいる。すなわち七歳の元清、六歳の元秋、三歳の元倶などである。これらの内で、将来知能も完全に心持ちも人並みに成人した者があるならば、憐憫を加えられ何方の遠境になりとも封ぜられたい。しかし大抵は愚鈍で無力の者であろうから、左様な者に対しては如何様に処置をとられても、それは勝手であって何の異存はない。今日までの心持ちは早く言い表せば正にその通りである。しかしながら三人と五龍すなわち聟の隆家との問が少しでも仲悪くなったならば、元就に対する不孝この上もないことである。
一 我等事、存知之外、人を多うしない候之条、此因果候ハて叶ましく候と、内々せうしにて候、然間、かたーの御事、此段御つゝしミ肝要候ー、元就一世之内ニ報候へハ不及申候ー、
一、元就は意外にもこれ迄多数の人命を失ったから、この因果は必ずあることと心ひそかに痛く悲しく思っている。それ故に各々方も充分にこのことを考慮せられて謹慎せられることが肝要である。元就一生の問にこの応報が現れるならば、三人には更に申す必要もないことである。
一 元就事、廿之年、興元ニはなれ申候、至当年之于今迄、四十余ヶ年候、其内大浪小浪、洞他家之弓矢、いかハかりの伝変に候哉、然処、元就一人すへりぬけ候て、如此之儀、不思議不能申候、身なから、我等事、けなけ者、とうほね者ニても、知恵才覚人に越候者ニても、又正直正路者ニて、人にすくれ神仏之御まほりあるへき者ニても何之条にニてもなく候処ニ、かやうにすへりぬけ候事、何之故にて候共、更身なから不及推量候ー、然間、はやー心安、ちと今生之らくをも仕、心静ニ後生之ねかひをも仕度候へ共、其段も先ならす候て、不及申候ー、
一、元就は二十歳の時に兄興元に死に別れてから当年に至るまで四十余年を経過している。その問、群雄は各地に割拠して、大浪小浪の起伏常ならざる如く、自家・他家の戦争の模様はいかばかりか変転している。然るに元就一人がこの問を切り抜けて、今日あるを得たことは言葉に尽くし得ぬ程不思議なことである。元就自身平素からの心がけの宜しきものにあらず、筋骨すぐれて強健なものにもあらず、知恵才覚が人に卓絶したものにもあらず、また正直者で人一倍神仏の加護を受けられるべきものでもないのに、このような難局を切り抜け得られたのは一体何の故であるのか、元就も自分ながら了解に苦しむところである。それ故に今は一日も早く隠退して安穏に余生を送り、心静かに後生の願望をも充たしたいと思っているけれども、今の世の有様では不可能であるのは、是非もないことである。
一 我等十一之年土居ニ候ツるニ、井上古河内守所へ客僧一人来候て、念仏之大事を受候とて催候、然間、大方殿御出候而御保候、我等も同前ニ、十一歳ニて伝授候而、是も当年之今に至候て、毎朝多分呪候、此儀者、朝日をおかミ申候て、念仏十篇つゝとなへ候者、後生之儀者不及申、今生之祈祷此事たるへきよし受候ツる、又我々故実に、今生のねかひをも御日へ申候、もしーかやうの事、一身之守と成候やと、あまりの事ニ思ひ候、左候間、御三人之事も、毎朝是を御行候へかしと存候ー、日月いつれも同前たるへく候哉ー、
一、元就は十一歳の時、多治比猿懸城麓の土居にある屋敷に起居していたが、その時井上河内守光兼の所へ一人の旅憎が来て、念仏の大事を説くとて講を催した。そこで、父弘元の側室大方殿も出席して伝授を受けられた。その時元就も同様に十一歳で伝授を受けたが、それ以後今日に至るまで、毎朝大抵祈念を凝らしている。それは朝日を拝んで念仏を十遍ずつ唱えることである。そうすれば後生のことは勿論現世の幸福をも祈祷することとなる由である。また元就は故実によって現世の願望をも日輪に祈り申すのである。あるいはこの様なことが、元就一身の守護となるべきかと、大切のことに思う故、三人の方々も毎朝これを実行して欲しいと思う。もっとも日輪でも月輪でも何れも同様であろうと思う。
一 我等事、不思議ニ 厳嶋を大切に存る心底候て、年月信仰申候、さ候間、初度ニ折敷はたニて合戦之時も、既ハや合戦に及候時、自厳嶋、石田六郎左衞門尉御久米巻数を棒ヶ来候条、さてハ神変と存知、合戦弥すゝめ候て勝利候、其後厳嶋要害為普請、我等罷渡候処、存知之外なる敵舟三艘、与風来候て、及合戦、数多討捕頸、要害之麓ニならへおき候、其時我等存当候、さてハ於当嶋弥可得大利寄瑞ニて候哉、元就罷渡候時、如此之仕合共候間、大明神御加護も候と心中安堵候ツ、然間、厳嶋を皆々御信仰肝要本望たるへく候ー、
一、元就は不思議に思うほど、厳島神社を大切に思う心があって、長年月の問信仰してきている。それで最初に折敷畑合戦の時も、既に合戦が始まった時、厳島から使者石田六郎左衛門尉が御久米と巻数とを奉持してきたから、さては神意のあることと思い、いよいよ合戦を進めて勝利を得た。その後、厳島要害を修築するために、元就が厳島に渡航中、意外にも敵の舟三隻が突然来襲してきたので、交戦の結果多数の者を討ち取って、その首を要害の麓に並べて置いた。その時元就が思い当たったのは、さては厳島において大勝利を得ることができる奇瑞であるか、そのために元就が渡海の際にこのような仕合いのことがあったのだと信じ、厳島大明神の御加護も必ずあると心中大いに安堵することができた。それ故皆々も厳島神社を信仰せられることが肝要であって、これはまた元就の本望とする所である。
一 連々申度、今度之次ニ申にて候ー、是より外にニ、我々腹中、何ニても候へ候ハす候、たゝ是まて候ー、次なから申候て、本望只此事候ー、目出度々々、恐々謹言、
一、これまで山々申したいと思っていたことは、これで言い終わった。これより外に元就の腹中に何もなく、ただ是だけである。ついでとはいえ、言いたいことを全部言って了って、本望この上もなく大慶の至りである。
霜月廿五日 元就(花押)
隆元
隆景 進之候
元春
霜月二十五日 (弘治三年[一五五七]十一月)元就(花押)
隆元
隆景 これを進める
元春