庶民は高嶺の花
日本に於いてのお墓の歴史は大変古く、古いものでは皆さんご存知の古墳「前方後円墳」、今から1700年前から存在していた神道のお墓です。
その後も形を変えお墓は建立され続けてきましたが一般庶民には到底、建立する資力はなく、ごく簡単なものでした。
鎌倉時代、武士が台頭し仏教も盛んになりましたが現在の全て仏教は鎌倉仏教と呼ばれ最澄から始まり派生したものです。権力を持つ大名は当主が亡くなると財力で僧侶を招きお寺を創建(建立)し五輪塔や宝篋印塔を造り弔いました。現在の多くのお寺は元々当主などの菩提寺です。当主に仕える家臣や家来らはお寺を建立することが出来ない為、お墓だけを建立しましたが庶民は土葬した後、自然石を用いた簡単なお墓で加工されたお墓は建立する事は出来ませんでした。
やがて江戸時代末期頃から財力がある地主などもお墓を建立することが出来るようになり明治時代になって、豊な庶民もお墓を建立するようになりました。
今の神社やお寺は大名の菩提寺
明治初期までは令制国といい、70近い国(現在の県)に分かれていました。山口県民であればよく耳にする「大内」、この大内は大内氏を指す姓で守護大名を経て戦国大名、最終的には中国地方全域を支配した巨大勢力でした。一方「毛利氏」は安芸(現広島県)の国人領主に過ぎず毛利元就時代に下克上の末、結果的に大内氏領を支配することになり戦国大名に成りあがった経緯を持ちます。しかし、毛利輝元の時代に関ケ原の戦いで西軍総大将となり戦いに敗れた為、周防国と長門国の二国(現在の山口県)に減封された歴史があります。
この記事をご覧の皆さんは次回、菩提寺に行かれる際に山門やお寺の屋根や瓦に着目して見て下さい。どこかに家紋が施してありませんか?山口県だと一番多いのが毛利家の家紋です。それから大内家、岩国方面では吉川家の家紋、これは、そのお寺がその武将又は一族の菩提寺を示しています。具体的には昔の武将は亡くなると菩提寺を建立していました。戦国時代は領地の奪い合いですから領主は戦に勝った者に変わります。その地に在ったお寺の住職は寺の保護の為、新たな領主に従いました。その為、新たな領主の菩提寺に変わることも多かったのです。中には新たな領主に従わず廃寺になるお寺も沢山あります。
毛利氏家紋
大内氏家紋
吉川家家紋
大内家・毛利家の両方の家紋を付した龍門寺(周南市)
江戸時代は永く続きましたから山口県は毛利氏が領主の時が永く、毛利の家紋が付くお寺は多いのですが、元々は大内氏のお寺の場合、両方の家紋を付す寺院もあります。山口県でも岩国方面(周防岩国領)では宗家毛利家の配下である吉川家が領主でしたから吉川家の家紋を付する寺院が多いのです。
吉川家家紋を付した山門
山口市瑠璃光寺は大内氏から吉川家菩提寺へ
国宝瑠璃光寺五重塔がある瑠璃光寺(旧香積寺)は元は大内氏の傍流(支流)陶氏の菩提寺(安養寺)、下克上の末、毛利領となった後に「三本の矢(毛利両川)」で有名、織田信長(豊臣秀吉)とも戦った、吉川家、吉川元春の牌所(位牌堂)。吉川家家紋九曜紋が施されたものが多く存在する。