後から追加彫り
明治以前のお墓は故人一人づつが埋葬される個人墓が建てられましたが、夫婦で埋葬される夫婦墓(比翼)も建てられていました。しかし夫婦墓の場合は同時に亡くなる訳ではないので、夫が先に亡くなった時に建立して、その後、妻が亡くなると、そのお墓に埋葬しました。墓石に彫る戒名は後から追加彫り出来るようにスペースを空けておき、後から戒名等を追加していたようです。その他、夫婦の一方が生前戒名を頂き没後、没年月日や没年齢を彫るケースもあったようです。この時、一方は生前墓(逆修ぎゃくしゅ墓)になってしまう為、彫った戒名は朱(赤)を入れて伏せていました。又、別々に埋葬されたご夫婦を追善供養とし遺族が新たに夫婦墓を建立する事も多かったようです。
現在でも夫婦墓の建立者は多いのですが、昔とは少し違い、正面に戒名は彫らず「〇〇家之墓」「〇〇夫婦之墓」などの文字を石彫します。それに現在のお墓は追加納骨を昔の様に一度、解体する必要がなく簡単に納骨出来るようになっています。
空白になる場合も
没後、夫婦墓に埋葬される予定であったお墓でも、事故や自殺などにより、そこに入れない事もあります。地域による風習でしょうか?事故や自殺などで亡くなった方は通常のお墓には入れない風習の地域もあるようです。その場合は夫婦墓の予定が個人墓になるケースもありました。風説や仏説はなかなか無視出来ないですね。
比翼塚
写真は比翼塚です。施主さまより許可を頂き掲載させて頂きました。実際に施主さまからお聞きした施主さまの実の姉にあたるお話です。
昔、実家に暮らす姉が若い頃、近くに住む男性と恋に落ち二人は生涯共に暮らす事を切望していましたが、昔は現在の様に本人の自由な結婚が認められることは少なく共に両親に反対され二人は諦め切れず自ら共に命を経ちました。
葬儀が終わり、二人のなきがらは、それぞれの代々墓地に祀られましたが、両家は改めて話し合い「亡くなってからも別々は忍びない」と埋葬したなきがらをお骨上げし改めて夫婦墓(比翼塚)をここに建立し二人の遺骨を混合し埋葬したそうです。
その妹さんでもある施主さまは生前墓+夫婦墓建立希望で弊社の施主さまになられた訳ですが、建立時90歳を超えておられた、施主さまも健康長寿でしたが建立7年後、老衰の為、あの世に旅立たれました。安らかにお眠り下さい合掌。
山口市秋穂のロミオとジュリエット-吉岡新太郎の墓
山口県山口市に瀬戸内海に面した秋穂という地区があります。この地区はエビが有名で毎年夏に「あいおえび狩り世界選手権大会」なる競技?が行われ毎年TVでも取り上げられます。その会場に辿り着く数百メートル手前に秋穂総合支所があり、その傍らに通りすがる人々を見守るように明治維新直後の比翼塚が建ってます。近くの山口市立図書館秋穂図書館に「秋穂町の史跡と伝説」という本があり、この比翼塚についてのエピソードが記されていましたのでご紹介いたします。
原文
遍明院峠の禅光院入口に地蔵様があります。この地蔵様の少し北側に心中墓二基と石燈籠一基があります。その男の名が吉岡新太郎で女が難波(大阪)のおまさ、その話は次の通りです。
八幡隊がここの菩提寺(禅光院)に駐留して来た文久三年暮、その隊中にあって大変に元気のよい司令がいました。彼のかける号令が二島の大里にいた奇兵隊にまで届いたといいますから、意気盛んな青年であったことがわかります。
その後各地で戦ったあと八幡隊は集義隊と合併して鋭武隊と名をかえました。それは慶応三年(一八六七)二月のことです。その年の冬薩摩と長州の兵は破竹の勢いで幕府軍を追いました。よって大阪にいた幕府軍は関東方面に退去しました。
その頃鋭武隊は備後国尾道から大阪に上阪して来ました。そして翌慶応四年(この年が明治元年にあたります)正月には大阪に着いて、市内の寺に合宿しました。そのうちの二小隊は泉州堺の中浜一丁目井上関右衛門という鉄砲鍛冶の家に滞宿しました。その時のこの隊の司令が吉岡新太郎です。吉岡等が泊まった井上関右衛門家は毛利元就以後毛利家の御用達をつとめた藍谷与三右衛門家の弟に当たるので毛利藩とは特別の間柄でありました。その時に対幕戦の功を賞せられて朝廷からお酒四斗樽一挺が届けられましたので、中浜一丁目では戸毎に土器をもって来て、天子様より頂戴したお神酒が頂戴できるといって大変な悦びに沸きました。そこで吉岡新太郎は酒樽をぬき、柄杓で土器にお酒を分けて町内の人々に配りました。井上関右衛門はお神酒開き祝いといって魚や肉を料理してご馳走し、三味線や琴まで持ち出して興をそえてくれました。
一方大阪での集義隊は西御堂筋の町の警護に当たっていましたが、この泉州から引き揚げて来た二小隊が到着した時には既に江戸に向かったあとでした。そこで吉岡隊は間もなく神戸に出て同年五月帰国を命ぜられ、十三隻の船で秋穂浦に帰り着きました。そして二島の大里にあった鋭武隊屯所に帰りました。このことは元集義隊の隊員で、後に八幡隊と合併して行動を共にした中津江出の小野鼎三が書き残したものの中にあり、この吉岡が大阪にいたほんの僅かの間に見染めたのが難波の商人山邑某の二女おまさであった筈ですから、おまさは何かの事で堺中浜一丁目に来ていて、天子様からのお神酒をふるまう吉岡新太郎の様子を一部始終見ていたものでしょう。
おまさは新太郎を慕う心やみがたく、その後を追うて只一人長い船旅の末、秋穂浦に上陸、祇園町海辺にあった旅宿の二階に落ち着きました。新太郎にしてみれば、二人の仲は到底親が許してくれるとも思われず、といって話して聞かせても別れて帰るおまさでもありません。二人は苦悩しました。遂に合意の上、旅宿の二階で心中して果てました。明治二年六月九日のことです。新太郎二十六歳でした。
若くして果てた前途のある二人の死に対し、人々は心から同情し涙しました。そして同年九月には秋穂の有志が相談して供養の碑を建てました。石燈寵には寄付者の名前が刻まれています。当時栄えた秋穂浦の面々の名前がこれほど揃ったものは、他にみつかりません。二つの墓石にはそれぞれ「吉岡新太郎信義の墓」「浪花くろがねばし 山邑おまさの墓」とあります。そしておまさの碑の側面には、有富猿石(源兵衛)の追善句が次のように刻まれています。「はるばると たづね秋穂の浦浪に ともに散るとは あわれなりけり」尚寄進者の名前も付記しましょう。有富源兵衛、平原平右衛門、山内休兵衛、山内道祖松、重富隆蔵、松永栄蔵、江村吉九良、江村作兵衛、森繁恒助、上村三十良、米倉孫三良、益富半蔵、当浦何某、上村文十良、萬谷久吉、大坂山村何某
原文「秋穂町の史跡と伝説」